Home 年表1 年表2 年表3 年表4
 賀 烟波 三宅先生九十初度之序  恩師三宅 秀博士の卒寿に進呈された賀詞
昭和13年3月12日 帝国学士院長 櫻井錠二(81歳)

 資料提供 飯高建士氏・ 三宅 秀博士のご遺族が発刊保存されている
思い出の記「桔梗・三宅 秀とその周辺」より転載

櫻井家には三宅博士にまつわる資料が殆ど無く、
今回の転載をご快諾戴きました孫の三宅典次様(秀博士の長男鑛一様の次男)に
心より感謝申し上げます。
三宅 秀博士には成人されたお子様が一男五女いらっしゃり、
三女まつ様の長男・仁田勇様は櫻井錠二と同じ化学に進まれ
昭和14年には第30回櫻井褒賞の受賞者でいらっしゃる。
ご縁浅からぬものを感じます。
三宅先生米寿祝賀会集合写真(櫻井家九和会所蔵)


口語訳

烟波<雅号・エンパ=末が霞んで見えるほど、遠くまで波が続いているさま。
実際はイニシャルM・Hをドイツ語読みにするとエムハーとなる遊び心から。 
初度之序=初めての次第
 

徳川時代の末にオランダ医学が我国に到来し、多くの新進気鋭の士が学んだ。その後イギリス医学が導入されたが、新興国ドイツ医学の価値を認めてその導入企画がたてられドイツ医学が我医学界を風靡するに至った。この間オランダ医学やイギリス医学よりドイツ医学に転向する者が続出した。三宅先生もそのお一人で、先生ご自身も転向され、又学部長を勤められていた東京大学医学部も同時に転換に成功できたのは先生の学問的根源にある。

 安政5年、先生が11歳の時漢籍、オランダ語を主に学び、13歳で高島秋帆塾に入門、英語・及び算術を修め、その後オランダ語・英語或いは翻訳書で数学・物理化学・歴史・薬学・解剖・内科等の諸学を修め、文久3年フランスへ1年余り留学。元治元年帰国、横浜で米医・へボンに師事し数学・物理化学を修めた。また英医ウール診療所にて臨床診断を学び、米国海軍軍医ウエッドルに3年間師事、慶応3年金沢壮猶館翻訳方を命ぜられ仕官した。明治3年大学出仕を命ぜられ物理化学の講義を分担された。これが大学との最初の関わりであった。先生は僅か23歳で大学教授となり、明治7年大学が廃止され、大学東校が独立して東京医学校となると教授。明治9年校長。明治10年東京開成学校と東京医学校とを併せて東京大学を設置、東京医学校を改めて東京大学医学部となると先生は医学部教授に。明治14年医学部長兼任、明治19年帝国大学設置となると帝国大学医学部教授に就任。医史及び裁判医学を分担し、医科大学長に着任。明治36年昇進の路を退け退官された。先生は6人の子女、23人の孫及び19人の曾孫から慕われ子孫縄々の栄を享受され、桃李満開の慶に当られた。帝国大学在職中、評議員として枢機に参与され功労された。 

勅旨をもって東京帝国大学名誉教授の称号を受けられた。明治18年東京学士会院会員となる。即ち今の帝国学士院会員となり、明治20年医学博士の学位を授与され、明治24年貴族院議員に任命された。その他官私諸種の委員・議員等に列するもの枚挙にいとまがない。全て先生の学徳であって重責を担われた。明治9年米国フィラデルフィアで開催の万国医学会に参列して副会長に列挙されたことは先生の名声がつとに海外にも馳せていることは承知の通りである。著書には医学書数種があるが、その学問の最高権威と言われるている。

先生は天性の温厚・平易安泰、日頃から平生心を修行され奇をてらうことなく精神修養をなさったもので、今年九十歳の幸寿にまで昇られた。先生は今でも読書を好み、耳目聡明、なお健康は倍旧し、百寿を待つばかりである。煕朝<キチョウ=江戸漢詩=約千5百名、1万5千首の漢詩を収める>に詳しく、学界の至宝というべき存在である。学士院には五十有余年尽力され現在の会員をまとめて子弟の業績をあげた。引退後も先生の学徳を慕い敬う者が長寿の賀宴を設けて杯を挙げ讃えることとなった。